2024-10-15

思い出の看板

 『フジオクーン、おはよう!!』

少年ソフトボールクラブの練習日、その日もいつもの日曜日8:00、朝からの練習です。

今考えると、ウィークデーの朝と変わらない時間帯。
まあ日曜日なので、早いっちゃあ早いかもですが。

 

 フジオクンの家は、なぜか巨大なコンクリートの建物の裏手、ボイラー室みたいなところの鉄階段を上がり、登り着いたところにアルミの業務用玄関があります。

ピンポンすると、ネグリジェ姿のお母さんがいつも超眠そうな、超機嫌なお顔で、

『どうしたの?』

と、詰問して来ます。

 

 『今日、ソフトボールの練習日で。。』

そういうと、ああ、といった顔をして、ドアをバタン!と閉めます。

そしてしばらくすると、これまた超不機嫌そうな寝起きのフジオクンが、『・・・・』何も言わずに出て来ます。

 

 毎回、どことなくハードルが高かったですね、フジオクンを呼びに行くのは。

だいたい日曜日の朝はどこの家でも、呼びに行くと、チームメイトがもう今出るところだった的な、ご家庭を挙げての準備万端な明るい慌ただしさが、玄関には溢れていました。

で、最後はいつもフジオクン。

彼はいつも、いつまでたっても集合場所に来ないのです。

 

 で、呼びに行く。

すると、何あんたたち?みたいな応対を親にされ、出て来たフジオクンは、(お前ら起こしやがって)みたいな憤怒の表情で出てくる。

普段は超明るいフジオクンなだけに、日曜日の朝の一家をあげての門前払い寸前の冷遇ぶりは、なかなか不思議な感じがありました。

 

 そして、ソフトボールチームも卒業し、大人になって、フジオクンが地元でも有名なショッピングセンターの社長さんの息子さんだったことを知り、あのボイラー室の階段の玄関は、巨大なショッピングセンター裏手の最上階自宅だったことを知りました。

 

 夜仕込み、朝準備が通年、超絶忙しいショッピングセンター。

ご家族あげての経営で、お正月以外は休みなし。

せめて日曜日の朝くらいは、一家全員遅寝したいのが人情。

そこに、『フジオク〜〜ン、おっはひょー!』と早朝不定期に能天気に来られるもんだから、そりゃあ、まあねえ。。。

 

 今になってヨックわかります。

ソフトチームも僕らも全然悪くなかったし、フジオクンとこも全然悪くなかった。

ただ、日曜日の朝というのが、いわばたまたま毎回、やばいセッティングだった、的なだけだった。

 

 そのショッピングセンターも地元の過疎化、イオンモール等の進出で、奮闘むなしくやまって(止まって・宮崎言葉)しまいました。

当時は日中はいつ行っても、人で溢れかえっていましたし、なんならうちのナベママもパートさんをしていましたね。

刀折れ矢尽き、皆に愛された長い歴史に、終止符を打ったこの倒産劇は、地元の一大ニュースにもなりました。

 

 現在、そこのショッピングセンター跡地は、巨大な病院になっています。

結構、当時同様に繁栄しています。

地域人口が多かった昔は、ショッピングセンターとしてのニーズ、そして今は過疎化高齢化としてのニーズと、なんだかピシャッと時代時代にはまっていて、時が変わってもちゃんと拾う神ありなんだなあ、と感慨深く思います。

全て消え去った片隅、あのボイラー室があった横に、なぜかポツンと今でも、ショッピングセンターのお客様駐車場の看板が、まるで現役のように残っています。

 

 『スーパーマーケット駐車場・駐車は当店でもお買い物の間だけにお願いいたします・警備員がレシートを拝見させていただく場合もございます。』

云々の最後に、

『夜7時にて施錠いたします。』

 

 夜7時ともなれば、パタリと人影の絶えた(いまもそう変わらないですが)下町で、栄華を極めたスーパーマーケット。

その当時のまま、時が止まったような看板。

帰省のたびに眺めるこの看板だけは、いつまでもこのまま残り続けてほしい、と思った秋の帰郷でした。