戦前より軍港として発展した横須賀長浦港は、かつては、ここJR田浦駅(国鉄田浦駅)を起点に、網の目のように線路が敷設されていた。
現在では写真のように、3つあるトンネルの中で最大規模を誇った専用線のみ、昭和の残滓を晒している。
駅構内の、かつて米軍油槽車両(米タン)で賑わった荷役線は1線のみを残しマンション敷地と変貌し、往時の面影はない。
駅からトンネルを抜け、右に左にカーブを描きながら、駆け抜けてくるレール。
1998年にジェット燃料輸送は使用中止となり、2006年にはJR貨物も取扱い廃止。
それでもなぜか、近年まで、ここによく相模運輸のスイッチャーが止まってたり、何となく軌道敷内の手入れがされていて、もしや専用線の再開か?の淡い期待があったのだが、この令和2年夏撮影の段階でもう完全廃線。終了である。
陽光に生い茂る草藪に、その往時をイメージすることすら困難となった。
路面電車でよく見られる。直角に交わるレール。
直進すると弾薬積み降ろしのあった、比与宇トンネルへ。
左へ行くと、倉庫の引き込み線や、米軍施設内へと向かう。
ただ運輸倉庫内に引き込まれたレールも、廃機材が積まれていたり、アスファルトに埋没していたり。
港湾をめぐる路線も、残存はすれど、殆どが埋め込まれて、かつ潮風によって風化している。
以前は犬の散歩や、ジョギングコースだったりして、実にのどかだったのだが、悲しいかな、現在は厳重に立ち入り禁止となってしまった。
本線、田浦駅に向かってひたすらに南進する、倉庫側線。
現在は突っ込み線として有名なトンネル内線路もなくなり、戻ることは永遠に不可能となってしまったのであるが、真っ直ぐに伸びる鉄路が、どことなく哀れである。
果てたレールに供えられたかのような野の花。
人と交わることがなくなり、残された数少ない鉄の記憶の静かな余生を、見守っているかのような気がします。
終点に向かって進む、2本の線路。
直進する、港の荷下ろしに活躍した線路は、役目を終え、分厚いコンクリートの壁を設置され、二度と港へは行けなくなっていました。
終着駅。
短い旅ももう終わりです。
田浦専用線の最果ての地、ここは相模倉庫運輸の荷役および所有車両たちの留置線として、その役目を終えました。
さい果てのレール止めのバラストに線は突入して、それ以上に伸びることなく終わっています。
戦前、戦後と時代を超えて活躍した、田浦長浦港の側線群。
赤茶けたレールの残像たちが、わずかながら後世にその生きた証を伝えているかのような、不思議な時間旅行。
おつきあいありがとうございました。
昭和44年、横浜本牧駅の開業と同時に、工業塩を運ぶ専用線として開通。終着駅が国際埠頭株式会社のため、名称もグローバルな響きの国際埠頭専用線であった。
分岐線に日本農産工業専用線もあったが、こちらは1991年に廃止。痕跡は残っていない。以降、国際埠頭駅への貨物輸送のみとなったが、着荷主の合理化の煽りを受け、2005年8月に運用終了。現在は休止線扱いである。
ここは踏切地点であるが、すでにレールのすき間が埋もれていて(あるいはアスファルトで埋め込まれて)、即時の列車運用は不可能となっている。
上の地点の反対側。このように常時コンテナトラックが止まっている。
廃線というのは、一度廃止が決まると、律儀にレール止めをしたり、埋め戻したりと、ご丁寧に手が加えられるような気がするのは、私だけであろうか。
このトラックも、いつ見てもここにいるので、むやみに人が線路上に入らないよう、ガードマン的なアルバイトをしている気がする。
ここの踏切のなれの果て。警報機の札は使用中止表示にされ(板をひっくり返すと、踏切注意の文字が書かれている)、挙句になぎ倒されていた警報機。
36年の長い年月を、黙々と働き続け、最後は無残に打ち捨てられた、もの言わぬ者たちの哀れが迫ってくる。
踏切から覗くと、かなり状態良く線路は保持されている。
こういうあたりが実に不思議でねー。
踏切は埋めてあるし、警報機はメタメタだし、でも線路は神経質なまでに除草してクリアーに保たれてあるし。
やる気が、あるんだかないんだか。
途中で見かけた、廃線旅の必須アイテム。不法投棄ブラウン管テレビ。
ビクタービジョン・ソリッドステート。当時の最先端テレビですね。
父『テレビ買うならやっぱりソリッドステートじゃなきゃ。』
子『えーお父さん本当!!やったー!ウチにソリッドテレビが来る!』
母『お父さん、良いんですか?(微笑み)』
あー、昭和の香りだ、、、
今でいう4K、有機el、液晶ハイビジョン、みたいなもんでしょうか。
終点に回り込むと、線路が健康体のまま、こちら側に駆け抜けてきています。
ただ、お肌の状態はサビサビで、列車の運行が途絶えて幾年月も経ったことを、物語っています。
こちらの警報機はちゃんと直立して、『使用中止』を提示。
今もなお、いい仕事をしていました。
夕闇にうっすらと光る、鉄の2線。ただ本来の相方である鉄の車輪ではなく、それは無関係なタイヤによってのみ磨かれる、一旦停止という敬意すら払われなくなった踏切。
それでもその薄い輝きは、物流の栄華の痕跡を、今だに伝え続けています。
現在の日南線油津駅の隣りに位置し、線路跡は緩やかなカーブを描いた生活道路となっている。
1.0km先の駅跡地は現在パーキングである。
油津駅を出て、線路の東側を大きく雄大なカーブがこちらへ伸びている。旧線跡。
線路跡は、変則的な生活道路の一部として、区画整理されることなく、現在もなお温存、活用されていた。
程なく、旧駅跡に到着。小さな川を超えていた橋台跡。初代から設置されていた橋だとしたら、ゆうに100年を超えている貴重な産業遺構である。
駅跡の駐車場の先に残っていた、なんらかの建造物。先ほどの橋台跡の延長線上にあり、線路の終端部へと続く遺構と思われる。
駐車場のペイントがまるで、当時のレールの枕木のように伸びてきている。
現代の文明の利器が、タイヤを休めるその先で、ひっそりと100年の移り変わりを見つめてきた、夕日に暮れる元油津駅の遺構。