横浜臨港線の一部として、高島駅(貨物駅)より専用線が伸びていた。
ここの奥は、昭和24年、当時の倉庫不足に対応して、設立された東西上屋倉庫。
その後、近隣に山下臨港線が敷設されるも、総合荷役から専用配送に、輸送形態が変わり、取扱量が激減。
昭和61年、11月1日、山下臨港線廃止。
それ以前に、この専用線はすでに休止になっていたと思われます。
山下臨港線より、分岐してきた専用線。
途中、機回し線と2線に分かれ、倉庫へと伸びています。
分岐は、最終出荷の機回しが終わったあと、解放から閉塞へ。
最後の転轍がおこなわれたのは、いつ頃の話でしょうか。
レールは剥がされることなく、隙間を埋め込まれている。
そのまま路面の一部として、長い昭和の時代を、過ごしてきました。
本線末端部。
このレールの終端は、一度も鉄の車輪を噛んだことがないであろう役目の部分。
昭和の専用線の、最終地点。
辿ったレールを戻ります。
貨物駅に向かって進む、2本の線路。
この先で、さらに左に、一本分岐。
大胆にも、道を斜めに横断して、目の前の税関内に線路が延びていました。
ですが、この専用線の母体となる貨物駅(高島駅)はすでになく、離れ小島になった専用線は、その役目を終えました。
分岐器もろとも、アスファルトに埋もれています。
税関線は平成初期まで残っていた記憶がありますが、道路拡張に伴い、いつの間にか消えていました。
昭和30年ごろの、上屋倉庫周辺。
奥の大きな建物が、いわゆるクイーン(横浜税関)。
異国の地を思わせる風景。
先ほど辿った2線と、うっすら税関線も、元気に写っています。
(2009年、象の鼻パークオープンに伴い、今回の廃線跡は全てなくなりました。)
大正時代より、軍港として発展した横須賀長浦港。
現在のJR田浦駅を起点に、網の目のように線路が敷設されていました。
専用線は草木に覆われた一番端のトンネル。
かつては隣のマンション駐車場いっぱいに、米軍タンク車がずらりと並んでいた。
4、5線あった荷役線は、いまは1線のみ。
駅から駆け抜けてくるレール。
1917〜20年頃、大正中期に敷設。
1984年廃止。だが、3年後、
1987年復活。11年稼働し、
1998年ふたたび休止。そしてついに、
2006年JR貨物取扱い廃止。専用線群、正式廃止。100年の歴史の幕が降りる。
それでもなぜか、近年まで、ここに相模運輸の機関車(スイッチャー)が止まっていて、何となく再開への淡い期待がありました。
が、この令和2年夏撮影の段階で、もう完全廃線。終了。
陽光の生い茂る草藪に、その往時をイメージすることすら困難となっています。
ダイヤモンドクロスと呼ばれる、直角に交わる珍しいレール。
直進すると、弾薬積み降ろしの比与宇トンネルへ。
左は、倉庫や、米軍施設内へ。
ただ米軍専用線は、送油施設自体がすでに廃止のようで、この先はレール独特の、弧を描いたアスファルト道となっています。
運輸倉庫内に引き込まれたレールも、廃機材が積まれていたり、アスファルトに埋没していたり。
港湾をめぐる路線群も、わずかに残るのみ。
殆どが埋め込まれて、かつ潮風によって風化。
以前は犬の散歩や、ジョギングコースだったりして、実にのどかだったのですが、現在は厳重に立ち入り禁止となっています。
本線、田浦駅に向かってひたすらに南進する、倉庫側線。
現在はスイッチバックのトンネル内軌道もなくなり、本線に戻ることは永遠に不可能となってしまった。
真っ直ぐに伸びる、サビたレール。
果てたレールに供えられたかのような野の花。
人との交わりを終え、わずかに残された鉄路の記憶を、見守っています。
終点に向かって進む、2本の線路。
この先立ち入り禁止。
こちらの直進するレールは、港の荷下ろし場や機関庫に繋がっていた線。
役目を終え、分厚いコンクリートの壁に分断され、二度と港へは行けなくなっていました。
左に曲がった線路の先は終着駅。
短い旅の終わりです。
大正、昭和、平成と軍役、荷役に供した田浦専用線の最果ての地。
最後は倉庫の荷役および所有車両たちの留置線として、その生涯を終えました。
海軍時代にはさらに奥まで伸びていた線路も、現在はレール止めのバラストに埋め込まれ、それ以上に伸びることなく終わっています。
戦前、戦後と1世紀に渡り、時代を超えて活躍した、田浦長浦港の引き込み線。
赤茶けたレールたちの残像が、わずかながら後世にその生きた証を伝えているかのような、不思議な風景の旅でした。
昭和44年、臨港鉄道横浜本牧駅の開業と同時に、工業塩を運ぶ専用線として開通。
終着駅が国際埠頭株式会社のため、名称もグローバルな響きの国際埠頭専用線でした。
以前は、終点からスイッチバックして日本農産工業専用線(1991年廃止)も存在し、現在はゆるい駐車場カーブとして、線形のみ残っている。
以降、国際埠頭駅への貨物輸送のみとなったが、着荷主の合理化により、2005年8月に運用終了。
線自体は休止線扱いであるが、終着駅では既に更地化が進んでいます。
ここは踏切地点であるが、すでにレールはアスファルトで埋め込まれて、即時の列車運用は不可能となっています。
上の地点の反対側。このように常時コンテナトラックが止まっています。
廃線というのは、一度廃止が決まると、律儀にレール止めをしたり、埋め戻したりと、ご丁寧に手が加えられるような気がするのは、私だけであろうか。
このトラックも、いつ見てもここにいるので、むやみに人が線路上に入らないよう、ガードマン的なアルバイトをしている気がします。
警報機の札は使用中止表示(板をひっくり返すと、踏切注意の文字が書かれている)。
36年もの長い年月を、黙々と働き続けた終焉の姿。
もの言わぬ者たちの哀れが、迫ってくるようです。
踏切から覗くと、かなり状態良く線路は保持されています。
こういうあたりが実に不思議でねー。
踏切は埋めてあるし、警報機はメタメタだし、でも線路は神経質なまでに除草してクリアーに保たれてあるし。
やる気が、あるんだかないんだか。
途中で見かけた、廃線旅の必須アイテム、不法投棄ブラウン管テレビ。
ビクタービジョン・ソリッドステート。
当時の最先端テレビですね。
父『テレビ買うなら、やっぱりソリッドステートじゃなきゃ。』
子『えーお父さん本当!!やったー!ウチにソリッドテレビが来る!』
母『お父さん、良いんですか?(微笑み)』
あー、昭和の香りだ、、、
今でいう4K、有機el、液晶フルハイビジョン、みたいなもんでしょうか。
終点に回り込むと、線路が健康体のまま、こちら側に駆け抜けてきています。
ただ、お肌の状態はサビサビで、列車の運行が途絶えて幾年月も経ったことを、物語っています。
こちらの警報機はちゃんと直立して、『使用中止』を提示。
今もなお、いい仕事をしていました。
ただ本来の相方である鉄の車輪ではなく、それは無関係なタイヤによってのみ磨かれる、一旦停止という敬意すら払われなくなった踏切。
それでもその薄い輝きは、物流の栄華の痕跡を、今に伝え続けています。
現在の日南線油津駅の隣りに位置し、線路跡は緩やかなカーブを描いた生活道路となっています。
1.0km先の駅跡地は現在パーキングである。
油津駅を出て、線路の東側を、大きく雄大にこちらへ伸びているカーブが、旧線跡。
線路跡は、変則的な生活道路の一部として、区画整理されることなく、現在もなお温存、活用されていました。
軌道跡らしい、緩いカーブが続いています。
初代から設置されていた橋だとしたら、ゆうに100年を超えている、貴重な産業遺構である。
先ほどの橋台跡の延長線上にあり、線路の終端部へと続く遺構と思われますが、詳細は不明。
駐車場のペイントがまるで、当時のレールの枕木のように見えます。
現代の文明の利器が、タイヤを休めるその先で、ひっそりと100年の移り変わりを見つめてきた、夕日に暮れる元油津駅の遺構。