宮崎日南線・元油津駅貨物廃線跡

 

宮崎・元油津駅貨物廃線跡

 

横浜本牧・国際埠頭専用線跡

 

宮崎日南線・元油津駅貨物廃線跡

 

昭和44年、横浜本牧駅の開業と同時に、工業塩を運ぶ専用線として開通。終着駅が国際埠頭株式会社のため、名称もグローバルな響きの国際埠頭専用線であった。

 

分岐線に日本農産工業専用線もあったが、こちらは1991年に廃止。痕跡は残っていない。以降、国際埠頭駅への貨物輸送のみとなったが、着荷主の合理化の煽りを受け、2005年8月に運用終了。現在の扱いは休止状態である。

この撮影地点は踏切地点であるが、すでにレールのすき間が埋もれていて(あるいはアスファルトで埋め込まれて)、即時の列車運用は不可能となっている。

 

 


上の地点の反対側。このように常時コンテナトラックが止まっている。廃線というのは、なぜかレール止めをしたり、埋め戻したりと、末端部がなかなかに律儀に手を加えられている気がするのは、私だけであろうか。

このトラックもいつ見てもここにいるので、半ばレールへ侵入させないためのガードマン的なアルバイトをしているような気がする。

 

 


ここの踏切のなれの果て。案内札は使用中止に裏返され(元に返すと、踏切注意になる)、挙句になぎ倒されていた警報機。

36年の長い年月を、黙々と働き続け、最後は無残に打ち捨てられた、物言わぬ者たちの哀れが、そくそくと迫ってくる。       

 

 


踏切から覗くと、かなり状態良く線路は保持されている。こういうあたりも実に不思議でねー。

踏切は埋めてあるし、警報機はメタメタだし、でも線路は神経質なまでに除草してクリアーに保たれてあるし。

 

やる気が、あるんだかないんだか。

 

 


終点に回り込むと、線路が健康体のまま、こちら側に駆け抜けてきています。

ただ、お肌の状態はサビサビで、列車の運行が途絶えて幾年月も立ったことを、物語っています。

 

 


途中で見かけた、廃線旅の必須アイテム。不法廃棄ブラウン管テレビ。

ビクタービジョン・ソリッドステート。当時の最先端テレビですね。

父『テレビ買うならやっぱりソリッドステートじゃなきゃ。』子『えーお父さん本当!!やったー!ウチにソリッドテレビが来る!』母『お父さん、良いんですか?』

あー、昭和の香りだ、、、

今でいう4K、有機el、液晶ハイビジョン、みたいなもんでしょうか。

 

 


と言っているうちに、もう終点です。

こちらの警報機はちゃんと直立して、『使用中止』を提示。

今もなおいい仕事をしていました。

 

 


夕闇にうっすらと光る、鉄の2線。ただ本来の相方である鉄の車輪ではなく、それは無関係なタイヤによってのみ磨かれる、一旦停止という敬意すら払われなくなった踏切。

 

それでもその薄い輝きは、物流の栄華の痕跡を、今もなお伝え続けています。

 


 


宮崎・元油津駅貨物廃線跡

 

大正2年、飫肥線終着駅として設置された初代油津駅に向かう。

現在の日南線油津駅の隣りに位置し、線路跡は緩やかなカーブを描いた生活道路となっている。

1.0km先の駅跡地は現在パーキングである。

 

油津駅を出て、線路の東側を大きく雄大なカーブがこちらへ伸びている。旧線跡。

 

 


線路跡は、変則的な生活道路の一部として、区画整理されることなく、現在もなお温存、活用されていた。

 

 

 


程なく、旧駅跡に到着。小さな川を超えていた橋台跡。初代から設置されていた橋だとしたら、ゆうに100年を超えている貴重な産業遺構である。

 

 


駅跡の駐車場の先に残っていた、なんらかの建造物。先ほどの橋台跡の延長線上にあり、線路の終端部へと続く遺構と思われる。

 

 


現代の文明の利器が、タイヤを休めるその先で、ひっそりと100年の移り変わりを見つめてきた、夕日に暮れる元油津駅の遺構。  


 


横浜・本牧駅国際埠頭専用線跡

 

昭和44年、横浜本牧駅の開業と同時に、工業塩を運ぶ専用線として開通。終着駅が国際埠頭株式会社のため、名称もグローバルな響きの国際埠頭専用線であった。

 

分岐線に日本農産工業専用線もあったが、こちらは1991年に廃止。痕跡は残っていない。以降、国際埠頭駅への貨物輸送のみとなったが、着荷主の合理化の煽りを受け、2005年8月に運用終了。現在の扱いは休止状態である。

この撮影地点は踏切地点であるが、すでにレールのすき間が埋もれていて(あるいはアスファルトで埋め込まれて)、即時の列車運用は不可能となっている。

 

 


上の地点の反対側。このように常時コンテナトラックが止まっている。廃線というのは、なぜかレール止めをしたり、埋め戻したりと、末端部がなかなかに律儀に手を加えられている気がするのは、私だけであろうか。

このトラックもいつ見てもここにいるので、半ばレールへ侵入させないためのガードマン的なアルバイトをしているような気がする。

 

 


ここの踏切のなれの果て。案内札は使用中止に裏返され(元に返すと、踏切注意になる)、挙句になぎ倒されていた警報機。

36年の長い年月を、黙々と働き続け、最後は無残に打ち捨てられた、物言わぬ者たちの哀れが、そくそくと迫ってくる。       

 

 


踏切から覗くと、かなり状態良く線路は保持されている。こういうあたりも実に不思議でねー。

踏切は埋めてあるし、警報機はメタメタだし、でも線路は神経質なまでに除草してクリアーに保たれてあるし。

 

やる気が、あるんだかないんだか。

 

 


終点に回り込むと、線路が健康体のまま、こちら側に駆け抜けてきています。

ただ、お肌の状態はサビサビで、列車の運行が途絶えて幾年月も立ったことを、物語っています。

 

 


途中で見かけた、廃線旅の必須アイテム。不法廃棄ブラウン管テレビ。

ビクタービジョン・ソリッドステート。当時の最先端テレビですね。

父『テレビ買うならやっぱりソリッドステートじゃなきゃ。』子『えーお父さん本当!!やったー!ウチにソリッドテレビが来る!』母『お父さん、良いんですか?』

あー、昭和の香りだ、、、

今でいう4K、有機el、液晶ハイビジョン、みたいなもんでしょうか。

 

 


と言っているうちに、もう終点です。

こちらの警報機はちゃんと直立して、『使用中止』を提示。

今もなおいい仕事をしていました。

 

 


夕闇にうっすらと光る、鉄の2線。ただ本来の相方である鉄の車輪ではなく、それは無関係なタイヤによってのみ磨かれる、一旦停止という敬意すら払われなくなった踏切。

 

それでもその薄い輝きは、物流の栄華の痕跡を、今もなお伝え続けています。