2008-06-15

色々な仕事

 最近、労働者のワーキングプア問題などが、社会問題として巷で取り沙汰されていますが、かくいう私も、昔は多種多様なアルバイトをして、なんとか食いつないでおりました。

 

 そんな数多くの仕事の中には、一週間でクビになったバーテンダーの仕事とか、冬の雨の中の工事現場での交通整理とか、精神的、肉体的に思い出すのもハードな仕事もたくさんしましたが、自分が一機械、ロボットになった仕事、というのがあります。

 

 その仕事もかなりハードな思い出なのですが、同時によくやったなあ、と感心する思い出でもあります。

それはすっかり金欠の若い時分、an(日刊アルバイトニュース)がわたしの愛読書だった時、目に飛び込んできた仕事でした。

 

 ダイハツ工場にてクルマの組み立て。

昼勤7時から5時と夜勤7時から朝5時、各8時間勤務を隔週交代。

メシフロ付き。

送迎バスあり。

2ヶ月限定の期間工。

で、月給38万円というものでした。

 

 それは、20年ほど前の大阪の話ですから、今の東京だと月50万くらいでしょうか。

これはオイシイ!やっと生活苦から解放される。

2ヶ月くらいはサックスサボってもいいや、との思いから募集に応じました。

そして予想もつかない、地獄の日々が始まったのです。

 

 まず8時間勤務とはいっても、ライン上でアリのように働く時間が、8時間キッチリあるわけで、その前準備、後始末は労働時間には入っていませんでした。

ので、実際は、一時間も前に前乗りして準備をし、ラジオ体操に参加して(7時出社な訳です。で必須。サボったら怒られました)仕事をしないといけませんでした。

 

 しかも一度ラインが動き出したら、2時間は止まりません。

その間、休むことなく自分のエリアに流れてきたクルマに、次々と部品を取り付けるわけです。

 

 たしか自分のエリア内の作業時間は、15秒か20秒ほどしかなく、それをオーバーするとクルマは次の人のところに行ってしまいます。

なので、ネジのハマってないドアだとかが、次々にラインを通過して大問題になったりもしました。

全部、私のせいです。

 

 いちおう緊急用に、天井にはワイヤーが張ってあり、それを引っ張ると、ラインが止まる仕掛けにはなっていましたが、間に合わずにそれをひくと

『バカヤロー!それぐらいで止めるなー!』

と主任に鬼の形相で怒られ、

(ああオレはきっとここで死ぬ!)

と、思いました。

 

 で、2時間経つと、やっと休憩なのですが、それはたった5分間でした。

ナベはこの5分間に、遥かかなたに流れて行ったクルマを追って、ネジ締めにいくわけです。

が、やっと戻ったらもうラインがガコンと動き始め、もうその時の絶望感たら、ああやっぱりオレは絶対ここで死ぬんだ、と思いました。

 

 そうやって、ああ死ぬもう死ぬと思いながらも、だんだんといつの間にか、ダイハツのネジ締めマシーンへと化していきました。

で、仕事を始めて2週間も経つと、自分の受け持つラインではノーミスになりました。

 

 それどころか1台15秒中、手早く機敏に、作業を10秒以内で終わらせ、残り5秒で、からだをゆっくりほぐし、5分間休憩では缶コーヒー1本&タバコ2本をきっちり根元まで吸い、定時になると後片付けをして、食堂でどんぶりメシをモリモリ食って、みんなでフロ入ってみんなでバス(護送車)に乗って家に帰る、という、出稼ぎ労働者みたいな生活に、すっかり慣れてきました。

 

 まあ若さゆえに、勢いでやり始めた仕事でしたが、高い報酬にはそれなりのハードな要求があるわけで、でも慣れるとこの機械油にまみれた仕事は、自分の体を張ってカネを叩き出してる、といった誇りを感じることができました。

 

 確かにキツかったですがその分、オトコの仕事!っていった、プライドムンムンの体験でしたね。

そして2ヶ月が終了するころ、人事担当者に

「渡辺さん、よかったらこのまま、こちらでお仕事を続けませんか?」

との、お誘いをいただきました。

 

 あのままあの仕事を続けていたら、今頃どうなっていたでしょうか?

京都ダイハツ山崎工場のホームページで、今週のダイハツだよりとか称して、ナベ日記とか出してたんでしょうか?

 

 

 2ヶ月間の短い期間でしたが、日本の自動車産業界の、大事な一歯車として働いた、なつかしい思い出です。