せっかくの宮崎で姉弟がそろったので、夜も遅かったのですが『これから三股に行こう!!』という事になりました。
三股とは、なべ姉弟が幼少時限定で住んでいた、都城盆地にある小さな町です。
この『ミマタ』という言葉の響きは、なべ姉弟にとって、心のルーツを感じさせる響きなのです。
以前にも書きましたが、私はこの三股にいる時、山王原児童館(さんのうばるじどうかん・当時通っていた幼稚園)に通う途中に、止めてあった車の後ろ顔(ホンダ・Nコロ)が怖くて、登園拒否になったことがあります。
また、山王原児童館からの帰り道、車に轢かれて死んだカマキリのお腹のなかから、黒いギョウ虫(ハリガネムシ)みたいなのが出てくる所に遭遇して、ギャーッと叫びながら、走って帰ったこともあります。
近所の女の子に突き飛ばされて、穴に落ち、鎖骨を骨折したこともあります。
なんだか子供心には悲惨だった思い出も、今や懐かしい、楽しい思い出たちですが、人生にとって三股で過ごした短い歳月は、その後過ごしてきた人生の時間の、何倍もの重さをもって、いつも思い起こされます。
よし、じゃあ行ってみよう!
車には地図がなかったけれども、道路標識に従っていけば大丈夫だろう、そんな軽い気持ちで走り出しました。
でもね~、都会の30キロ先と、田舎の30キロ先は全然ちがいます。
確かに、隣り町なのですが、田舎はやはり遠い。
整備されてはいても、山道は山越え感がありますね。周りに何もないから特にそう感じるのかも。
しかも三股への近道、と出ていた標識が、途中でやる気をなくして、さみしい三叉路で、標識が消えてしまったので、さあ大変!
それに、後ろで姪っ子と甥っ子が、都会では見た事もない山道に寂しがって、
「ねえ、順一い~、まだ着かないの~、もうかえろうよお~」
と言い出すし、仕方がないのでとりあえず線路づたいに走ってみる事にしました(住んでいた塚原団地は、横に線路が走っていた)。
その時、遠い山間部の裾野に、一筋の光明がチラと見えました。
あれはきっと、都城にむかう電車だ!何かヒントになるかもしれない。
そう感じたので、線路脇に車を止めて、わくわくして待っていたら、来ました来ました。
でもなんか変です。で、近づいてきた列車!!
轟音とともに通過していったのは、ナ、ナ、ナントたった3両の特急列車。みじけえ~!
東国原くんが頑張っている、宮崎の実情(地方全体かも)はこれなんです。
炭火焼地鶏は確かにウマイけど、新幹線も通らないこの県は、メインである日豊線ですらその実力は、特急3両編成がいっぱいいっぱいなんです。
それ以上繋げると、乗る人いないから破産するんです。
途中駅は、お金ないからぜ~んぶ無人駅なんです。
でもいちおうこれでも幹線(主要地点間を結び、網の骨格をなす重要路線のこと)なんです。
昔は人で溢れていた、ふるさと宮崎の、あまりの変化に、ボーゼンとなった、なべ姉弟でした。