2010-08-01

平和台球場

 備忘録。ちょっと長い思い出話です。

 

 ある夏、汽車に乗って旅行に出掛けました。

 

 九州一周の鹿児島本線は、赤いディーゼル機関車が客車を引っ張ります。

今みたいにクーラーなどは付いてなく、暑ければ乗客が窓を全開にして、思い思いに涼をとっていました。

客車は、ほぼゆるやかな満席の状態で、木造客車のニスの匂いと、お酒やお弁当の匂いがごった煮となって、鼻孔をくすぐります。

 

 列車『かいもん4号』は快走を続け、車内の宴会も、だんだんと賑やかになってきました。

が、西鹿児島、伊集院と過ぎるころには、いつしか車内は静まり返り、ふと気付くと賑やかだった乗客たちは、ほぼ眠りについていました。

 

 親父サンも姉サンも寝てしまったので、小ナベは窓を開け、顔を外に出して、風に当たりました。

はるか前方を見ると、蛇の胴体のようにくねる列車を引っ張っている、ディーゼル機関車のヘッドライトが真っ暗な闇を切り裂いて、ひた走りに進んでいます。

 

 しばらくボーッとその光を眺めていたら、急に波の音が聞こえた気がしたので、ふとまわりの景色を見てみると、なんと列車の明かりにわずかに反射して、白い波の影が足元を洗っています。

 

 海岸線です。

いつのまにか、漆黒の東シナ海が、目の前に広がっていました。

潮の香りがぶわっと漂ってきます。

 

 と、急に遠くでピュイーっと警笛が鳴りました。 

その音はしんと寝静まった海沿いの町に響き渡ります。

 

 なんで、機関車のクラクションて、あんなに甲高い音なんだろう。

そう思っているとまたピイーっと今度は長めに鳴りました。

 

 あんなに鳴らしたら、まわりの住民は目が覚めるんじゃないかなー、タヌキとかが飛び出したりするからかなー?もしかしてオバケとか、、、そんなことを子供心にワクワク考えながら、初めて見る夜行列車の風景や、異様に長く連なっている列車のシルエットを、不思議な気持ちで眺めていました。

 

 

 ふと目が覚めると、車内はまた活気に満ちた賑わいに戻っています。

外をみると朝の7時頃でしょうか、日はすっかり昇り、親父サンも姉サンも顔を洗ってないので、何となく脂っぽい顔をしていました。

 

 列車は、自分がいつの間にか寝てしまった後も、モクモクとひた走りつづけていたらしく、見知らぬ街並みを縫うように、レールの音も軽やかに走り続けています。

 

 到着したのは博多でした。

我々を待っていたのは、どこかの知らないおじさんでした。

親父サンの会社の取引先の人らしく、休日返上で一日中、福岡中を観光案内してくれました。

 

 やたら丁寧なオジサンで、車から降りる時も、子供ごときのなべに対して、ドアを開けてエスコートしてくれ、子供心に、なんかこっちは完全遊びで来てるのに申し訳ないな、と思ったのを覚えています。

 

 今思うと、高度成長期を支えたジャパンサラリーマンの一途さというか、切り替えのできない不器用さというか、徹頭徹尾な滅私奉公さ加減が、今のドライな感覚からしたら、或いは哀れないじらしさに映るかもしれません。

 

 でも昔の人はみんなこうでしたね。

今みたいにすぐキレたり爆発したりせず、ひたすら我慢して我慢して、頑張っていつかは良いことがあるのを信じて、明るく不器用に生きてました。

 

 でもいくら、取引先で上位にあるからといって、私的な観光に相手方の社員を休日返上で駆り出すなんて、親父も悪いやっちゃなー。

まぁ、親父サンも、会社で似たような送り迎えとかさせられてたから、当時は巡り巡ってお互い様な世の中だったのかも。

 

 その日の晩は、福岡平和台球場で『ロッテオリオンズ・対・太平洋ライオンズ』の、初プロ野球観戦をしました。

福岡のファンが、3塁側ベンチ上から金田監督に毒舌を撒き散らし、それを金田監督がチラッと見て、怒りもせず口の端でニヤッとする、大人の世界も初体験しました。

でもホームランが出た時、回りと一緒に思わず立ち上がってしまい、なんか妙に気恥ずかしかった覚えがあります。

 

 帰り道のホテルにも、オジサンが車で送ってくれ、その日の晩は死んだようにグッスリと眠りました。

 

 明けた朝。

やっと探検する元気が出て、外を見ようと窓ガラスを開けたら、10センチ先がいきなり隣のビル壁で、風景どころか、上の隙間から朝の光が、わずかに差し込んできてるだけ。

大都会のせせこましい建物の裏方事情というものを初めて体験して、朝日も拝めない都会という、華やかな顔のうらにある薄寂しい面に、ちょっとびっくりしました。

 

 朝食を終え、外に出ると、オジサンがまた、いつのまにか迎えに来てくれていました。

なんとその日も、オジサンは我々一行を夕方まであちこち案内してくれ、最後に駅に送ってくれた際には、深々とお辞儀をしてくれていたように思います。

 

 今思うと、知らないおじさんに対して、なべは多分人見知りをしていたと思うので、最後にちゃんと、お礼が言えたのかどうか全然覚えていないのが、いまだに心残りです。

 

 あのオジサン、まだ元気に生きてくれてっかなあ、ちゃんとお礼が言いたかったなあ。

なんて、セミが鳴くころになるとよく思い出す、小学生の頃の、ひと夏の思い出でした。