たった3両の、特急列車にも置いていかれ、ふたたびあたりは静寂の闇です。
結局、道はさらに細くなり、山道を右に行っては、いやこんな風景じゃなかった、左に行っては、これは戻ってきているぞ、と、迷いに迷いながら、明かり一つない山間部をさまよい、ようやく寂しい踏切にぶちあたりました。
線路に出れば正解です。
このさみしい線路は、さきほど見た、遠くは鹿児島まで続く、宮崎が世界に誇る日豊線に違いない(都会と違って、他に私鉄の線路なんぞはありません)ので、私の帰巣本能も、まんざらではなかったです。
で、山道を無事下り終わり、細道が他の道と合流し、小さい苔の生えたような石橋を渡り始めた時、急に、何かの感覚がざわめき始めました。
ん? 橋?
真夜中だし回りもよく見えないが、この空気感はもしかして、すでに、 ミマタ?
幼少時の三股の記憶には、いくつかのポイントがあって、住んでいた塚原団地(つかばるだんち、と読む)の近くには、大きな川が流れ、その川を国鉄の鉄橋が渡り、その横に平行して、立派な道路橋が架かっていたのが、鮮明な記憶としてあります。
お袋さんに抱っこされて、その長い道路橋から、横を走る列車に “バイバイー ” と、手を振ったような記憶があります。
記憶の中にある、あの懐かしい橋の印象は、太陽の光に照らされて銀色に輝いていた、とても立派な橋だったのですが、まさか、この小さく祖末な侘しい石橋がもしかしてそれ? まっさかあ~。
でももし、そうだとすると、この橋を渡り終えてすぐの所に、左に入る道がある?
どうだろ・・・あれ?あった!!
だとすると、ここを入ってしばらくすると、踏切がある??
んーと、踏切、ないなあ~、 ン? あれは、もしかして踏み切り? あ!やっぱり!!あった、あった!!
だとすると、この踏切を超えたら、そこが昔住んでいた塚原団地?
踏切を超えた瞬間、『ビンゴ!』 そして 『!!!』
ヘッドライトに照らし出されたその風景は、記憶とはあまりにもかけ離れた、壮絶な表情をむき出しにした、ゴーストタウンでした。
草ぼうぼうの敷地内に、置き忘れられたかのような、朽ち果てた長屋群。
侘しい朽ち果てそうな電柱の光以外は、ほぼ真っ暗な、西部劇で見る回転草でも、転がって来そうな風景。
それらの建物の配置は、記憶にある40年前のままで、ただ改装改築は、すでにまったくなされていない様子です。
ということは、人口の需要がこの団地にはまったくなく、したがって、住宅として40年間の間、全く発展できなかったことが推測されます。
いつごろから、過疎化が始まったものなのかはわかりません。
が、ささやかな観光事業(早馬祭り、というのがある)以外、これといった産業のない町の人口は、減りこそすれ、増えることはなかったのでしょう。
昔よく遊んだ三角公園の遊具は、すべて取り払われていました。
この長屋形式の団地は、町営だろうと思われますが(調査してみましたが、現在の入居募集はなしでした)、そこの維持に悩む三股町は、人が出る度に、団地を次々と閉鎖していった感があります。
ひさしは外され、雨戸は締められ、備え付けの給湯設備も撤去されて、もうここは利用価値なしとばかりに、くすんだ建物のみが残置されています。
ただ取り壊しにも、カネはかかりますでしょうし、たとえ更地にしても、人口の少ない自治体には、これといった方策もないのでしょう。
このあたりで、また後ろの席で姪っ子甥っ子が
「ねえ~じゅんいちい~かえろうよ~、ねえってば!!」
と騒ぎ始めました。
そらそうだわなあ、めっちゃブキミだもん。
大人ふたりで
「ここ。ここ。ここのゴミ捨て場の穴ん中に順一が突き飛ばされて鎖骨折ったっちゃがね~」
とか
「ここに商店があったがね~」
とか
「住んじょったとこは、どこじゃったかね~何号やったかね~?」
とか騒ぎながら、でもいく先々、真っ暗で不気味な廃墟群ばかりですから。
子供は怖いわね。
ただどうしても、住んでいた家がわかりません。
姉弟の記憶を総動員して、多分このあたりかなあ、というところまでは一致するのですが。
あまりに、荒廃してて、多くの住民で活気があって、そして母と共にいた昔の懐かしい記憶と、なんだか違和感があるんですね。
それほどまでに、40年の歳月を経て、人のいなくなった塚原団地は、変わり果てていました。
姪っ子甥っ子は、どうやら災難でした。
なぜなら、その夜の恐怖のノスタルジックツアーは、その塚原団地を皮切りに、まだまだまだ続いたからです。