さて浜松での恐怖の一夜が明け、次の日はまたまた快晴。
朝の光の下で見る廃墟は、やっぱり気合の入った廃墟でした。
よくこんなとこで寝たなあ。
その頃になると、だんだんチャリ生活も慣れてきて、調子が良いとマップを見ながら、軽快に自転車を漕ぎ進めてました。
ひとつには、浜松から当分平地が広がるので、今までに比べたらかなりラクチン。
顔に当たる冬の清涼な空気を、胸一杯吸い込みながら、これだよ、この感じだよ、旅はいいネエ~と一人、上機嫌でした。
だけど、やはり一日ずつ、ちゃんと試練の時があるみたいで、その日は、夕暮れ迫る岐阜の大地を、ぎいこぎいこと、快適に進んでいたツーリングも、天下分け目の関ヶ原を超えるあたりから、またまた雲行きが怪しくなってまいりました。
なんと、あれだけ晴れてたのに、夜になると、雪が降ってまいりました。
それもかなり力一杯降ってきまして、あっという間に辺り一面、山の中は銀世界。
まあ、なんてロマンチック❤️などと、言ってる場合では、なくなってきました。
なにせ一瞬で、歩道と車道の段差すら判別できないくらいに降り積もったので、これはたいした豪雪です。
それに、ペダルを漕いでもタイヤがすぐにスリップ。
坂道はスピードが出ないから、すぐ失速してコケるし、下り坂はまたもや滑りまくってコケるし、あまりの仕打ちに、だんだんと腹が立ってきました。
まあでも、今考えると、遭難しかねないほどの極寒の吹雪でしたから、命あってのものだね、プンスカ怒っているくらいが、気が張って、ちょうど良かったのだと思います。
そんな感じの関ヶ原超えは、米原に着くまでの5,6時間のあいだ、トラックにひかれそうになりながら、そして全身雪だらけになりながらの、滅茶苦茶な雪中行軍になりました。
そういえば、途中で転んだ弾みに、チェーンも外れたなあ。
泣きっ面に蜂ではないですが、なんかトラブルって次から次に起きませんか?
あれって、ほんと苛だたしいけど、あの時はそれを乗り越えようとして、じっと耐えている、けなげな自分にもどこか、酔いしれたりしてました。
こうして、若者は逞しくなっていくんでしょうな。
その日は米原駅に、寝床をもうけました。
当時はまだ、深夜列車が米原に停車していた関係かどうか、駅のちいさな待ち合い室が、終夜解放されていました。
そこにはストーブがあったので、もうヤッタ~、助かった、、、という気持ちが、心の底から湧き上がってきました。
おおげさですが、関ヶ原の見えない悪魔に、見事打ち勝った気分でした!
その夜は、寝ていたら警察官の職務質問に起こされて、びっくりした一幕もありましたが、東京から九州に自転車で向かっているという話をしたら、またもや同情をひいて、待ち合い室で寝ることを、大目にみてもらいました。
そしてその夜は、列車待ちの人の話す方言と、ストーブのぬくもりに囲まれて、いつしか、深い眠りに落ちていきました。