雨に濡れ、雨に昏れた家家に橙がともった。
この書き出しの一編の詩に、よく茫洋とした自分の未来の風景を重ね合わせて、夢想した中学時代。
雨の風景は決して嫌いではなく、むしろ好きな方でした。
詩の内容は、雨に煙った町の幻想的風景を、実に平易な文章で歌ったものであり、雨の情景の寂しさと奥深さが、じんわりと伝わってくるものでした。
今、いつしか、『活動すること』に追われ、日々の襞を嗜む、味わう感覚に遠ざかっている気がします。
雨が降っていたら、それは『心の潤い』ではすでになく、ただの交通手段の選択を迫られる気象現象の一つでしかなく、あの頃夢想した(しかし雨の風景にソソルとは、かなり暗い性格ですね)未来の風景に到達している現在が、あの頃より、心は未来の情景から遠ざかっていることを、ふと感じました。
極論かもしれませんが、あの頃に比べたら、もしかしたら今は、ただただ生きているのみ、呼吸しているのみ、と言った方が正しいのかもしれません。
学校生活、子供時代の不自由は、親元、規律に縛られる生活ですから、そういった抑圧の元で、逆に感性の発露みたいなものが起こりやすいのかも知れません。
そういえばその頃は、頭の中では未来への妄想が、むちゃくちゃ広がっていましたね。
あるいはただ単に、若さゆえのエネルギーの持って行き場が、たまたま僕の場合は夢想することだったのかもしれません。
まあかなり、トンチンカンな行動も起こしましたが。
親は大変だったろうと思います。
そう、大木実さんの詩を思い出したら、そういうことを徒然に思い出しました。
でもこの日記書いてて良かったです。
思い出させてもらいましたから。
そう、何が足りないんでしょうか?
時間? もちろんそうですが、何ごとかの想いを馳せる時間、でしょうか?
具体的には、想いを馳せたい何か?を、 ” 今 ” 持っているか?
そういうことになるのでしょうかね。
これから雨の季節になってきます。
もうあの頃のような夢想はできなくても、雨の休日には、その頃のことを思い出して、1日過ごしてみるのも良いかも。
” 忘れていた心の中の感覚 ” に気付くかもです。
それがもしかしたら、矢のように過ぎ去ろうとしている、色褪せた『今』を、あの頃のような人生のゴールデンタイムにしてくれるのかも知れません。