2016-06-01

雨に昏れた家

 雨に濡れ、雨に昏れた家家に橙がともった。

 

 この書き出しの一編の詩に、よく茫洋とした自分の未来の風景を重ね合わせて、夢想した中学時代。 

雨の風景は決して嫌いではなく、むしろ好きな方でした。

詩の内容は、雨に煙った町の幻想的風景を、実に平易な文章で歌ったものであり、雨の情景の寂しさと奥深さが、じんわりと伝わってくるものでした。

 

 今、いつしか、『活動すること』に追われ、日々の襞を嗜む、味わう感覚に遠ざかっている気がします。

雨が降っていたら、それは『心の潤い』ではすでになく、ただの交通手段の選択を迫られる気象現象の一つでしかなく、あの頃夢想した(しかし雨の風景にソソルとは、かなり暗い性格ですね)未来の風景に到達している現在が、あの頃より、心は未来の情景から遠ざかっていることを、ふと感じました。

極論かもしれませんが、あの頃に比べたら、もしかしたら今は、ただただ生きているのみ、呼吸しているのみ、と言った方が正しいのかもしれません。

 

 学校生活、子供時代の不自由は、親元、規律に縛られる生活ですから、そういった抑圧の元で、逆に感性の発露みたいなものが起こりやすいのかも知れません。

そういえばその頃は、頭の中では未来への妄想が、むちゃくちゃ広がっていましたね。

あるいはただ単に、若さゆえのエネルギーの持って行き場が、たまたま僕の場合は夢想することだったのかもしれません。

まあかなり、トンチンカンな行動も起こしましたが。

親は大変だったろうと思います。

 

 そう、大木実さんの詩を思い出したら、そういうことを徒然に思い出しました。

でもこの日記書いてて良かったです。

思い出させてもらいましたから。

 

 そう、何が足りないんでしょうか?

時間? もちろんそうですが、何ごとかの想いを馳せる時間、でしょうか? 

具体的には、想いを馳せたい何か?を、 ” 今 ” 持っているか? 

そういうことになるのでしょうかね。

 

 これから雨の季節になってきます。

もうあの頃のような夢想はできなくても、雨の休日には、その頃のことを思い出して、1日過ごしてみるのも良いかも。 

” 忘れていた心の中の感覚 ” に気付くかもです。

 

 それがもしかしたら、矢のように過ぎ去ろうとしている、色褪せた『今』を、あの頃のような人生のゴールデンタイムにしてくれるのかも知れません。